これまで、戦争を例えにとって考えてきました。
いろいろ考え方がある事なので、
例示としてはふさわしくなかったかも知れませんが、
メディアとの向き合い方を整理するために、あえて取り上げました。
「戦争論」について書いているわけではないのでご了解の程を♪
ところで、σ(^^はたまに思う事があります。
何事も知らない方が幸せなのではないか?と。
何も知らなければ何も疑わなくてすむ。
何も知らなければ比較することもされることもない。
どんな目にあったとしても「そんなもんだ」と思えることは幸せなのではないかと。
中途半端に、下手な知識を身につけて「盲目的」に生きていくよりも、
よっぽど心の平穏が得られるのでは?....
でも、人間として生きている以上はそんなことは無理ですな(^^;
だったら、徹底的に貪欲に「知る」という欲求を満たす。
ありとあらゆる事を知りたい!という思いを持ち続ける。
死ぬまで学んでいたい!と思うのもいいことだと思うんです。
中途半端な知識で思考停止して、
「成長」を止めてしまわないように。
それは、人間としての喜びではないでしょうかね。
哲学的な話をしたついでに、少し蛇足を。
「クオリア」の共有ということが出来ないのであれば、
「最後の最後」のところで「人は永遠にわかりあえない」のだろうと、σ(^^は考えています。
わかりあえない存在どうし、どうすれば良好な関係を築いていくことが出来るか?
それは「知る」という行為を積み重ねていくしかないと思うんです。
そのためにも、「知る」という欲求を持ち続けなければならない。
ある程度の知識で「自分を固めてしまう」のは、
それ以上、他者を受け入れないということになるのではないでしょうか。
それでは「対立」しか生みません。
人間社会で生きている以上、
「対立」の最終形は「争い」であり、
その形式は「戦争」なってしまうのでは?
だからこそ、人間は「知り続ける」必要があるんだろうと考えています。
各メディア(ゴシップや漫画も含めて)の報道には、本当に感謝しています。
近年は、インターネットの普及で本当にありとあらゆる情報に接することが出来ます。
とても全てに目を通す事は出来ませんが。
ジャーナリストの方の個人的な思いもその情報のひとつ。
それらを否定するどころか、
「そういった考え方もあるのね」と思えることは大変嬉しいことでもあります。
ただ、「中途半端な断定」には「個人的」に残念に思ったりもしますが....
σ(^^にとって、メディアの報道に接するということは、
「知る」ための方法のひとつでしかありません。
ジャーナリズム論などといった学術的なものをしっかりと勉強したわけではありませんが、
あるひとつの報道だけを鵜呑みにしないということが、
メディアとの正しいつきあい方ではないかと思うのです。
そのためにはどうすればいいのやら....
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