司馬遷の「史記」といえば、よくご存じの方もおられるかも知れません。
その「史記」を書くに当たって、司馬遷は「天道是か非か」というテーマを持っていたそうです。
この言葉には、
「本当に正しいことはこの世に有るのか無いのか、
正しいことは本当に正しいのか正しくないのか」
という哲学的な?意味を持ちます。
司馬遷がその疑問?を持つきっかけになったのが、古代中国「殷」の末世、
伯夷と叔斉という兄弟の故事であるそうです。
その兄弟のこと、詳しくは物の本に譲るとして簡単に説明を(^^
伯夷・叔斉とは、
自分たちが間違っていると思う君主には仕えない!そんな国には属さない!と、
結果的に餓死してしまう兄弟のお話です。
当時は、「外国」という概念が無く、
当時の中国人にとって「殷」はただひとつの「国」であり、「社会」だったわけです。
その「国」、「社会」に背を向けるということは、生活出来ない、働けない、食べられない訳です。
にもかかわらず、ですよ。
彼らは自分の信念を通して餓死したと。
で、司馬遷は考えます。
「正しいと信じる事を貫き通すことが正解なのか?
そもそも、その『正しいこと』は真実として世の中にあるのか?」と。
解釈が間違っていたらごめんなさい(^^;
いつも「王様はハダカだ」と叫び続けているσ(^^も、
餓死するほど信念は強くないので恥ずかしくも思うですが、
でも、「深いテーマ」だと思うんですよね。
で、今回は何でこんなネタで書いているかというとですね、まずは写真をご覧ください。
σ(^^が通勤で使っている道路の、とある場所です。
この写真の先は土砂崩れで完全に道がふさがれています。
何ヶ月もこの状態のままで、復旧のめどが立っていません。
お陰で、7kmほど遠回りをして通勤しています。
でもこの写真、なんだか先へ行けそうに見えますよね?
この先には集落があり、完全に止めてしまう訳にはいかないのです。
地元の方々のために、通れるようにしてある訳です。
でも、土地勘がある人は知っています。
土地勘が無くても、野次馬で入っていった人は見つけてしまいます。
その集落の中を通っている細い細い道を使えば、
土砂崩れの現場を少しの迂回で避けられることを....
その「地道」を知った人たちは、当然のようにその「地道」を使います。
もともと、結構な交通量の道路です。
その一部でも、細い細い地道に流れ込んできたら....
すれ違いが出来ないので大混雑。
地元の人たちは大迷惑。
警備員を立てたとしても、
「わし、そこの家のもんやけど?」
と言われれば通さない訳にはいきません。
で、何kmも遠回りしたくないおバカさんたちがゴイゴイと進入していって、
トラブルそっちのけで通勤している。てゆーか、トラブルを起こしている。
σ(^^は、遠回りをしています。
約10分の時間と、往復で約1リットルのガソリンを余分に使って。
何ヶ月もたてば、結構なロスになるのですが、
それでも「地道」に突っ込んでいくバカにはなれません。
はてさて、「天道是か非か」。
こんなしょーもないことで、
引き合いに出された司馬遷や伯夷・叔斉には申し訳ないのですが、
ふと考えてしまったものでネタにしました。
みなさんは、いかが思われます?(^^
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