いやいや、今朝は寒かった(^^;
思わず石油ファンヒーターに火を入れちゃいました♪
さて、前回から「車いすハンドボールの歴史」を綴っています。
2001年の「国体」の話からでしたね。
2001年といえば、今の小学6年生や中学1年生が生まれた年。
ミレニアムの感慨もまだ冷めやらぬ時期。
全国障害者スポーツ大会の第1回大会が宮城県で開催されました。
かつて京都から伝わった車いすハンドボールがこの大会のオープン競技として採用され、
この時から「良くも悪くも」車いすハンドボールは大きく広がりを見せることとなりました。
京都大会では無敵を誇ったドリーマーズは、
「国体」という場でその強さを見せつけてやる!
と、意気揚々乗り込むのです(^^
予選リーグで「宮城フェニックス」と初対決。
どんなチームが参戦しているのかさっぱり解らない中、
いろいろ考えていてもしようがない。
てゆーか、
σ(^^たち強ぇし?
どこが相手でも関係ねぇし?
てな感じでプレイしていたのです。
失礼な話ですが、
宮城フェニックスに対しても同じスタンスでいました(^^;
当時の「京都ルール」は、運動能力に差が出ないように、
発祥時よりも速攻などの対応が出来ないようにルール改正が行われていました。
一方の「東北ルール」は発祥時のまま。
速攻をしにくいルールの下でプレイスタイルを組み立てていたσ(^^たちドリーマーズは、
東北勢の速攻を織り交ぜた猛攻に手こずります。
しかし、対宮城フェニックス戦を含め「予選を何とか勝ち上がった」ゲーム展開が、
σ(^^たちを楽観的な雰囲気にさせてしまいました。
ちなみに、後にも先にも宮城フェニックスに勝ったのはこの一回きり(^^;
決勝トーナメントでは再選した宮城フェニックスに「スコスコ」にやられて、
一回戦敗退の屈辱と共に帰宅したわけです。
敗因はシンプルです。
今までのやり方で間違いないと信じて疑わず、
当地のルールに対応しなかったことです。
それまでのドリーマーズは、「速攻」をしにくいルールの下で、
キーパーですらオフェンスのひとりと考えていました。
切り返しの展開が速くても、キーパーはゴールまで戻れる余裕がありましたから。
でも、「東北ルール」では、気がつけばゴールネットが揺れている状態でした。
キーパーをオフェンスに組み込んでいて、
そのキーパーが攻撃に参加出来なくなって、
「ひとり少ない」状態に対応出来なくなったということ....
で、「井の中の蛙の王様」は顔から火を噴いたと(^^;
懐かしく恥ずかしい思い出です♪
この国体後、「全国大会」が開かれる方向だと耳にしました。
そうなれば、今度は宮城フェニックスにお返しだと息巻くのですが、
(当時は「倍」とかなかったです^^;)
第1回大会まで、さらに2年の月日が流れます....
思い出話はこのぐらいで。
次回、「『全国後』の車いすハンドボール界」
連載ありがとうございます。
返信削除車いすハンドボールに携わる人間としてとても興味深く、
そして個人的に待ち焦がれていた話題に結構テンション上がっています(笑)
全国同様、変革が必要な大阪においても、繰り広げられてきた大阪の歴史を知り、
今後の展開を考えていきたいと思っています。
勝手な要望ですが大阪の歴史も織り交ぜて、車いすハンドボールの歴史を振り返っていただけるとたいへん嬉しいです(願)