今さらな投稿になりますが....(^^;
東日本大震災から2年が過ぎました。
3月11日当日に書くべきだと思っていたのですが、
「見た来たような」シリーズが連載中で、申し訳程度の投稿にしたくなかったことと、
当日の投稿だと、これ見よがしと言いますか、何となく「尻馬」に乗ったようなと言うか、
σ(^^;の思いとはどこかズレていて....
当日のメディアからはいろんな論調で話が伝わってきました。
「3.11」を記念日にしろ。
いや、そんなことはするな。
復興はまだ始まってもいない。
寄付金が減ってボランティアの活動を続けられない。
震災の記憶を風化させるな。
メディアはもっと情報発信しろ....
全くもって仰せの通り。
かつて、σ(^^;も走った宮城県の海岸沿い。
その映像もTVで流れました。
当時よりも、きれいになっていましたね。
がれきがきれいに片付けられて、
「さっぱり」とした印象をTV画面から受けました。
でも、同時に思ったのは「復旧」はかなり進んでいるけども、
「復興」には取りかかれてないんだろうなと。
復興には、まだまだ多くの難題が立ちふさがっていて、
そう簡単に進まないのもよくわかりますし、
遅々として進まない状況では、メディアが取り上げることも少ないのでしょう。
被災地以外では、「風化」なんて言葉で表現されるように、
「思い出そうとしなければ」被災地のことは意識しなくなる。
人間は、「忘れる」という機能があるからこそ、
平静を保っていられる動物なんだと聞いたことがあります。
「風化」という表現が正しいかどうかはわかりませんが、
震災の記憶が薄れていくのもさもありなんというところでしょうか。
ましてや、震災をメディアでしか知らない人たちにとっては....
でね、「3.11」のメディアの論調を見聞きしてて思うんですけども、
被災地の復興や被害者の方々の心情にクローズアップするのは当然のこととして、
そこから、防災、とくに「自助意識」を高めるという話題へ、なぜ移せないのでしょうかね?
犠牲者の方々を悼む、鎮魂の祈りを捧げることは、
人間として自然な行動だと思いますが、
犠牲者の方々、あるいはご遺族の方々の本当の思いは、
こんな思いを二度と、誰にも味わって欲しくないということではないでしょうか。
いろんな後悔の念を、悲劇のストーリーとして報道するだけでは、
震災を「ドラマ」にしてしまうだけだと思うんです。
本当に鎮魂の祈りを捧げるのであれば、
我が事のように、自分を、家族を、大切な人たちの命を、
「守る」という行動を始めていくべきではないでしょうか。
「次」に自分たちが後悔して、「ドラマ」にされないためにも....
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