健常者のエリートスポーツは本当に、消費されるものになってきました。
スポンサーとの連携によって、CMなどでPRされ、
大きな大会前にはメディアの注目度がどんどん上がり、
いい成績が出れば英雄、残念な結果であれば露出も少ない。
勝敗がはっきりと定義され、勝つことを求め求められるアスリートにとって、
それは当然のことなのかも知れません。
障害者のエリートスポーツも同様の傾向があります。
健常者や障害者といった区別は関係なしに、
エリートスポーツとはそういうものでしょう。
だからこそ、叩き出した好成績には惜しみのない賞賛が送られ、
あこがれや感動の対象になる。
そして、その選手の好感度が高ければ高いほど、
スポーツはすばらしいものであると認知してもらえることとなります。
言うまでもなく、競技の種類を問わず、
厳格な審判のもとに行われる勝負には見所が満載です。
障害者スポーツはそういう意味を含めて、
観戦することは二度お得なのです。
それは、選手の人間性をより理解して、
感情を入れ込むチャンスがあるということです。
前回の投稿でも書きましたが、
心の底から「ありがとう」と言える選手が放つ光は、
とても輝かしいものがあります。
先のバンクーバーパラリンピックでのメダルラッシュ、
特に、アルペンの狩野亮選手が金メダルを獲得した時に、
チームキャプテンの森井大輝選手が流した涙は、
障害を乗り越えてがんばった!というものではなく、
応援に支えられ、チームで勝つためにがんばってきた4年間に対する、
感謝と努力からくる素直な感情でした。
決して華やかなだけではない、とても泥臭い人間の感情が、
オリンピックでは味わえない名場面が障害者スポーツにはあります。
そんな1シーンにいられるよう、
まだまだ足りないところを、σ(^^は磨いていかなくてはなりません。
涙は、TVの前で流す悔し涙ではなく、喜びを共感するものでありたい。
そう、強く思います。
次回最終回「放たれる光は画面の中だけのものではもったいない」
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